2013年3月20日水曜日

散歩(西田幾多郎と「場」の知‐野中郁次郎による解説)

『善の研究』において「純粋経験」という言葉で西田が表現したのは、単なる個人的、主観的体験を超えたところにある、自己の超越でした。それは真理を実在するものとして求める(つまり私と真理が主客の関係にある)「有」の哲学としての西洋哲学へのアンチテーゼといえます。西田は、西欧近代哲学における主客の対立関係を超える物我一体の世界観として、純粋経験をあげたのでした。
西田哲学のポイント
☐現実をありのままに見る直観 
☐「知識」形成の母体としての「経験」の場
☐「直観」→「反省」→「自覚」という知識の弁証法的な発展
☐「知識」創造を可能にする「場」の重要性
☐ 自己と忘我の循環プロセスが「知識」を生み出す
日本人が知的風土としてきた東洋の伝統から、私たちは知識経営のためのもう一つの知の型を学び取ることが可能です。西洋知になく東洋知にあるものとしては、まず経験や実践の重視があげられます。さらにたえず「われ」という主体にこだわり、そこから主観・客観・経験・理性といった二項対立的世界観を導きだす西洋知に対し、東洋知は「われ」という主体の垣根はさほど高くなく、西洋のように個の確立が厳然と要請されているわけでもありません。そのため、「われ」を超えた主客未分や没我、忘我状態での知、自由に視座を移動させ、融通無碍に形を変える視点からの知がたえず探求されてきたのです。
こうした東西の二つの図式は、それぞれ「場所的論理」と「主語的論理」とも呼べる異なる推論の図式にまで展開されえます。前者は「場所において見る思考、イメージ的同一性による推論」であり、具体的感覚的な論理だといえます。それは西欧の主語的同一性に基づく推論の前段階ともいえる思考なのです。さらに、両者の論理は日常の中では無意識に用いられており、それらを発展的に統合するものとして、弁証法論理が位置づけられるといえるのです。

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