2012年5月10日木曜日

数学上の発見(岡 潔 エッセー より)



数学上の発見(岡 潔 エッセー より)

さて、話をさらにもとにもどして、数学上の発見について述べよう。

ところで数学上の発見については、

一九一二年に死んだフランスの大数学者アンリー・ポアンカレーが述べている。

(『科学と方法』、岩波文庫参照)

私の経験を述べる前に、まずそのいうところを聞こう。
ポアンカレーは数多くの経験をていねいに述べたのち、こういっている。
数学上の発見は三つの不思議な特徴を持っている。

一つは、それがごく短時間に行なわれることである。

二つは、発見が理性的努力なくして行なわれるということは決してないが、時間的にその直後ではなく、多くは一年も一年半もたってからである。

第三には、結果が理性の予想の範疇内にあったことがめったにないことである。

数学上の発見がいかなる知力の働きによるものかいかにも不思議である。

これは文化というものにとって非常に大切な問題である。それでポアンカレーのこの発表は、当時のフランス心理学会の注意を強くひいた。それで早速これを問題として取り上げて、当時の世界の大数学者たちに、あなたはどのようにして数学上の発見をしていますか、と聞いた。結果は、大多数はポアンカレーと同じであったという。それで問題は決まったのであるが、この間題はそののち解決に向かっては一歩も踏み出さなかった。無差別智のあることも、頭頂葉に宿る心のあることも知らないからである。

ところで、私も数学上の発見を数多く経験して知っている。

ところが、私の経験した数学上の発見は五つの特徴を備えている。

ポアンカレーがあげた三つと、いわなかった二つとである。

その二つはどういうものかというと、

一つは数学上の発見は必ず発見の鋭い喜びを伴うことである。

この発見の鋭い喜びというのは物理の寺田寅彦先生の言葉である。

第二は実例から先に述べよう。

私は、重要と思われる数学上の一つの発見をした。

証明抜きで結果だけがハッキリわかったのである。秋風が吹き始めるころであった。

それで私はこの発見のその周辺に及ぼす影響を調べた。この調査が一通り終わってのち、私は初めてこの発見を論文に書いた。そのとき初めて証明したのである。蛙鳴くころであった。
数学上の発見は頭頂葉に実る。実れば疑いは全然伴わない。書かないでおけは忘れるということもない。女性の妊娠と同じことである。私はこのとき数学上の発見を九ヵ月実らせたまま捨てておいたのである。
この疑いが跡を絶つということがいちばん大きな特徴であろう。ポアンカレーはその経験がないらしい。反対に、こんなことをいっている。「このときは証明の細部までハッキリわかった。」
道元禅師はこういっている。
「明らかに会取すれども鏡の影を映すが如くには非ず、一方を明らむれは一方は暗し。」
会取するのである。私がこのたぴ見定めようとしているのは、この違いのところである。

http://youtu.be/uQcCmAvTc2Y

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